転籍のご挨拶

時の流れるのは早いもので、シカゴ郊外のNapervilleに来て8年と2ヶ月が経ちました。裏庭のレンギョウは来たときにはまだ高さもそんなになく、葉が茂っても先が見えてしまうスカスカなものでしたが、8年の間に自分の背丈を超え、立派な目隠しとしての存在感が出てきました。

その間、仕事はほとんど変わっていないものの、ここで自分としてはかなり大きな節目がありました。
実は、ここまで4月末までは日本支社(日本法人)の社員として、出向の形でこちらで働いてきましたが、この5月からUS本社へ転籍となり、正式にUS本社側の社員になりました。転籍と言っても会社組織は異なるので、4月末で日本法人の方は退社、今日、5月3日からUS本社に新入社員として働き始めました。(新入社員として、決まりとして新入社員の一連のトレーニングプログラムをオンラインで取らねばならないようです。)58歳と7ヶ月で新入社員とは、ちょっとおかしな気分です。
元々、日本で働いている最後の方で、商品戦略的に自分の得意でない分野に今後舵を切っていかねばならないという状況になった際に、「自分にはできない分野である」と上司に訴えたことがきっかけで、アメリカでのポジションをオファーされたのが始まりでした。その仕事がProduct Line Management、一般的にはProduct Marketingと呼ばれることが多いと思いますが、つまりは製品企画の部署で、ある意味、20年以上前に外資系通信企業に入った時点から一度はやってみたいと思っていた仕事でした。二つ返事でオファーを受け、翌年2013年3月にシカゴ郊外のオフィスに転勤してやってきました。当初2年の予定でしたが、うまい具合に、担当していたオーストラリアで大きな案件が取れて仕事が増え、こちらの非常に合理的な仕事の仕方が自分もとても気に入り、できるだけ長くいたいという気分になってきました。2014年春の時点で、当時かなり自身のキャリアも積んでいた 友松 利英子を、退職させてまで呼び寄せ、お互いにアメリカでの生活が気に入り、今に至っています。

仕事の面では非常にニッチな分野であるケーブルモデム、DOCSISという通信を日本にいる時と変わらずにずっと関わってきました。オーストラリアでの案件というのは、全てのインターネットユーザーをL2VPNでP2Pでネットワークに繋ぐという、これまで我々の分野ではどこもやったことのなかった方法で、そのために数十もの新機能を開発して実現させました。その仕様検討からど真ん中で関われたのは本当にやりがいのある経験でした。最近の組織変更で扱う製品がぐっと広がり、一方でもっと顧客よりの案件対応の仕事となったので、ここに来てやっぱり新しいことを沢山勉強しなければならないことになりました。
日本法人からの出向でのビザは昨年11月にて制度上の最長期間を使い切る形で終わりました。今の仕事をまだまだ続けたいという希望を会社も聞いてくれ、昨年は面倒な雇用ベースでのグリーンカードの申請も行ってくれました。このあとグリーンカードは100%保証はされていませんし、取れてるとしてもまだまだ先のことになります。が、ようやく就労許可は出て、転籍が叶いました。
2012年秋に自分の弱気な意見を聞いてくれ、相談に乗ってくれた多くの同僚や、今のポジションのオファーを取り付けてくれた当時のカントリーマネージャーに今、大変感謝する次第です。

実は、この就労許可が降りるまでの数ヶ月は実際には、なんら仕事ができないという休職中、自宅待機の状態が続いていました。COVID-19のために、US移民局の仕事が遅れに遅れました。その投稿を書いた際にはいつ就労許可が降りるか状況が見えない状況だったので、あまり大っぴらに書くことでもなく、SFの話題のおまけで書いた次第です。この就労許可が、グリーンカード申請中のUSへの再入国許可も兼ねているので、これでようやく日本へも行けることとなり、6月初めに一度帰る予定にしています。2週間の自宅待機プラス10日くらいの予定で帰り、溜まっている事務処理や家の整理をし、両両親に会ってこようと思っています。
コロナ禍の状況でどこまで人と会えるのか。それまでに少しでも良い方向に向かっていることを願っています。
以上、「なかなか帰ってこないけれども、どうしているのか?」「はい、まだまだNapervilleにいる予定です。」という報告でした。今後ともよろしくお願いいたします。